上方文化

江戸と並ぶ三都であった大阪、京都では、17世紀後半から18世紀にかけ華やか な上方文化が花開いた。なかでも特筆されるのが、浮世草子を書いた井原西鶴 と歌舞伎や浄瑠璃の脚本をつくった近松門左衛門である。
西鶴は町人の立場で、現実肯定の視点から人間性を追求し、「好色一代男」、 「日本永代蔵」、「世間胸算用」を著わした。「好色一代男」が日本の近代文 学史上の画期的なものとなったことは、これ以前の作品群を仮名草子と総称し、 以後の同傾向の作品を浮世草子とよんで区別していることからもうかがえる。 日常会話体を文語化した清新な文体、意表をついた内容が好評を博し、後には 江戸で普及版が刊行されるほどであった。
近松は「曽根崎心中」、「冥土の飛脚」などを通して、封建制度という枠の中 で、義理人情のしがらみにあえぐ若い男女の愛憎劇を描き、日本のシェークス ピアともいわれる。
俳句では俳文紀行「奥の細道」で知られ、俳聖とよばれる松尾芭蕉は、17世紀 の半ば、三重県の伊賀上野市に生まれ、少年時代から俳句を志し、23才頃京都 に遊学して古今和漢の学をまなんだ。また18世紀の後半、大阪出身の上田秋成 は日本および中国の古典に題材を求めた「雨月物語」で怪奇小説の地位を確立 した。漢文脈、和文脈を巧みに使い分けした美しい文章、緊密な構成と鋭い性 格描写で珠玉のような短編集となっており、西鶴以後の近世文学の一つの到達 点となっている。